事件簿

※年代順

ベルリンの奇跡

1936年、ベルリンオリンピックの男子サッカー競技で日本代表がスウェーデン代表を破った試合を指す日本国内での表現。当時のスウェーデンはドイツ・イタリアと並ぶ優勝候補であった。これに対して日本は初参加という事と、体格面で圧倒的不利とされていた。試合は2点取られてから日本が3点を返し逆転勝ちを収めた。

スペルガの悲劇

1949年、セリエAで4連覇を果たしたACトリノの選手18人がポルトガルのベンフィカとの親善試合の帰りに飛行機事故で命を絶った。
当時のトリノはグランデ・トリノ(偉大なトリノ)と称され最強のチャンピオンであった。

マラカナンの悲劇

1950年7月16日、リオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンで行われたW杯ブラジル大会決勝のブラジル対ウルグアイ戦で、地元開催かつ優勝候補として前評判の高かったブラジルが先制するも逆転負けを喫して準優勝になった。
この結果にブラジル国民の2人が観客席から飛び降り自殺、2人がショック死、20人が失神するという大惨事になった。

ミュンヘンの悲劇

1958年、マンチェスターUの選手を乗せた飛行機が離陸に失敗し墜落。敵地でチャンピオンズカップ準決勝進出を決め、帰国する途中だった。生存者は3名。

暴動で死者318人

1964年、東京オリンピックの南米予選ペルー対アルゼンチンの試合で試合中に審判の判定を不服として観衆がピッチになだれこんだ。
事態を重く見た主審が試合終了を宣言した。会場は暴動へと発展し318人の死者、500人以上の負傷者を出してしまった。

サッカー戦争

1969年、W杯メキシコ大会のアフリカ予選において、ホンジュラス対エルサルバドルの試合をきっかけに始まった戦争。
7月14日に開戦し7月19日に停戦した為、100時間戦争とも言われる。

愛国心で釈放

1970年、メキシコW杯で開催国のメキシコは初のベスト8に進出し、国内は熱狂の渦に包まれていた。
重犯罪刑務所のマリアガ所長も雄叫びとともに銃を乱射し所内にある全ての独房の扉を開けて
142人の囚人全員を釈放してしまった。
この不祥事を起こしたにもかかわらず、マリアガ所長は裁判所で『愛国心からの行動』として無罪となった。

ヘイゼルの悲劇

1985年、ベルギーのブリュッセルにあるヘイゼル・スタジアムで行われたチャンピオンズカップ決勝戦、リヴァプール対ユヴェントスの試合中互いの小競り合いをきっかけに暴徒化し、リヴァプールのサポーターがユヴェントス側の観客席になだれ込み衝突した。
ユヴェントスのサポーターが逃れるために壁によじ登ったが、重量に耐え切れなくなった壁は崩壊し、多くの人々が下敷きになった。原因はスタジアムの老朽化とされている。
結果死者39名、負傷者400名以上を出す大惨事になってしまった。大多数がイタリア人だった。
試合はプラティニのゴールで1対0としユヴェントスが勝利したものの、プラティニは『もう、サッカーをしたくない』と言った。
イングランドの全クラブは無期限の国際大会への出場を禁じられた。後に5年間に変更。
当事者のリヴァプールは無期限から7年間に変更された。

ブラッドフォードのサッカー場で火災。56人が死亡。

1985年5月11日 ブラッドフォード対リンコーンシティの試合。前半終了間際メインスタンドの端から発火しわずか4分で木製の屋根全体が炎上。56人の死者と数百人の負傷者を出した。スタンドにたまっていたゴミ中のタバコが発火の原因と見られている。

アリアンサ・リマ墜落

1987年、ペルーの名門クラブ、アリアンサ・リマの選手等が国内リーグを追え本拠地のリマへの岐路についてたが途中で墜落した。
監督、選手、スタッフなど19人が死亡した。

ヒルズボロの悲劇

1989年4月15日、FAカップ準決勝で中立地のシェフィールド・ヴェンズデーのホームスタジアムであるヒルズボロ・スタジアムでのリヴァプール対ノッティンガム・フォレストの試合が始まって6分後、主審が試合の中断を命じた。
その時スタンドでは観客が立見席に押し寄せ混乱状態に陥っていた。その結果、人波やフェンスに圧迫され96人が圧死、負傷者200人以上というイングランドサッカー史上最悪の事故になった。
この時の死亡者の中には現リヴァプール所属のスティーヴン・ジェラードの従兄弟がおり、これが自分がリヴァプールにいる理由だと語っている。

ザンビア代表の悲劇

1993年、アメリカW杯アフリカ予選のセネガル戦に向かうザンビア代表を乗せた飛行機がガボン沖で墜落した。
欧州組以外の18人の選手は全員死亡。残された選手で最後まで健闘するも予選突破は出来なかった。

ドーハの悲劇

1993年、カタールのドーハで行われたアメリカW杯の最終予選での日本代表とイラク代表の試合において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まったことを指す日本での通称。
この結果、日本は得失点差でグループ3位になり悲願のW杯初出場は叶わなかった。視聴率は深夜にもかかわらず48.1%を記録した。

エスコバルの悲劇

1994年のアメリカW杯、優勝候補のコロンビア代表が開催国のアメリカ戦でDFのアンドレス・エスコバルのオウンゴールによって敗れた。
その後もコロンビア代表は波に乗れずに、まさかのグループリーグ敗退となった。
帰国後、オウンゴールを献上したエスコバル選手がナイトクラブから出てきたところを何者かに12発の銃弾をうけ射殺された。
大規模な賭博でコロンビアの優勝に賭けていた人の反感を買ったことが原因とされている。
それ以前は自殺点とよばれていたが、これを機にオウンゴールという呼び方に変わったとされている。

マイアミの奇跡

1996年、アトランタオリンピック男子サッカー第1次リーグにおいて、日本代表がブラジル代表に勝利した試合の日本における通称。
オーバーエイジ枠を使わなかった日本とオーバーエイジ枠を使いベベット、リバウドを使ったブラジル代表の一戦は試合前からブラジルの勝利と誰も疑わなかった。しかしキーパー川口の好セーブもあり、相手のミスから先制した日本が1-0で勝利した。
その後ブラジルでは特別番組を組み、国内の有識者達が屈辱的な敗戦の要因を徹底的に討論した。ブラジルでの通称は『マイアミの屈辱』。

ジョホールバルの歓喜

1997年、マレーシアのジョホール・バルで日本代表がイラン代表に勝利し、初めてW杯への出場を決めた試合における日本における通称。
日本は中山、城がゴールを決め、2-2で90分で決着がつかず延長戦に突入、延長後半13分岡野のVゴールで日本が勝利した。
日曜日の深夜に生放送されたにもかかわらず視聴率は47.9%を記録した。

サンドニの悲劇

2001年3月24日にフランス・サンドニのスタット・ド・フランスで行われたフランスとの親善試合。日本は0-5で大敗した。
当時はトルシエ監督が率いており歴代最強と言われていた日本代表だっただけにこの敗北はサッカーファンは落胆させた。

公式戦で149-0

2002年10月29日、マダガスカル選手権決勝2日目エミルヌ対アデマの試合で序盤2-1でエミルヌがリードしていたが、ファールがあったとしてアデマにPKが与えられた。エミルヌの選手達は抗議したが判定が覆ることなくPKを決められ同点にされ2-2で試合は終了した。
迎えた決勝の最終日、監督はサッカー協会への抗議として試合で出来るだけ多くのオウンゴ-ルを入れるよう選手達に指示した。
試合が開始された直後から選手達は約36秒ごとにオウンゴールを入れた結果149-0でアデマが勝利した。
エミルヌの監督の意図としては以前にも審判の判定で試合を壊された経緯がありオウンゴールで149点を取ることで世界から注目されればマダガスカルのサッカーの問題点を知ってもらえると思って選手達に指示したとの事。実際これが大きな話題になりサッカー連盟の役員は辞職に至ったが、新役員達は資金を持ってなかったので辞職した役員達が戻ってきたので状況はあまり変わってない。

重慶の奇跡

2004年7月30日、アジアカップ2004の中国大会。重慶で行われたヨルダンとの準々決勝。
試合は1-1のまま延長を戦っても決着がつかず勝負はPK戦へ。そのPK戦で芝の状態が悪かった事もあり日本が1本目と2本目を連続で外し、対するヨルダンは1本目・2本目を無難に決めた。2本目を終了して0-2、試合を見ていた誰もが半ば諦めていた。しかしそのピッチの状況について当時のキャプテンの宮本が主審に『こんなのフェアじゃない。』と英語で主張し非常に稀な事にPK戦の最中に反対側のゴールへ移動することになる。
そしてこの絶望的な状況からGKの川口が神懸りセーブを連発し奇跡的に勝利した。

日本    ××○○○×○
バーレーン ○○○×××× 

エスコバルの悲劇再び

2006年、コロンビア代表のFWエルソン・ベセラが同国のナイトクラブにいるところを射殺された。没27歳。
友人と一緒にバーを訪れたところ何者かと口論になった。犯人は逃走中。

カイザースラウテルンの屈辱

2006年6月12日、ドイツW杯グループリーグ初戦オーストラリアとの試合。
日本は中村俊輔のゴールで1-0とリードをしていた。しかし後半途中から入ってきたケーヒルに2点取られ、その後も1点奪われた。結果、終了間際の15分間の間に3失点を喫した事で逆転負け。
その後も日本は調子が戻らずグループリーグ2敗1分で大会を去る事になった。

交代を告げられチームメイトを刺殺

2006年9月10日、南アフリカのノースデール・スタジアムで行われていた三次リーグに所属する
Msenti Acesが試合をしていた。
前半が終了しハーフタイム中に監督はスタメンの選手に代わりエマニュエル・レフナ選手(25)を交代させる事とした。そしてレフナ選手が代わってピッチに入ろうとしたところ、交代を告げられた選手が刃物のようなものを手に取りレフナ選手を刺した。
当然に試合は中止になり、救急隊の治療にかかったがほとんどレフナ選手はほぼ即死だった。
被疑者の氏名などは一切公表されておらず年齢は26歳とのこと。

爆弾で警察官が死亡

2007年2月2日に行われたイタリア・セリエAの第22節カターニャVSパレルモ戦の暴動でサポーターが投げた小型爆弾が警察官のフィリッポ・ラチティさんに直撃した。
ラチティさんは小型爆弾が直撃した後、同僚に「心配するな。たいしたことない。でも気分が悪いので病院に連れて行ってくれ」と言ったのを最後に、搬送先の病院で死亡した。
5日のカターニャ大聖堂の葬儀の外には数千人が弔問した。
この事件を受けてイタリアサッカー協会はプロアマ問わず事件後に開催される予定だった全てのサッカーの試合が中止され、既に9日から11日に行われるセリエAとセリエBの次戦、7日に予定されていたイタリア代表の親善試合の中止が決定

アジア杯の祝砲で3人死亡

2007年7月21日、サッカーのアジアカップでイラクがベトナムを下し準決勝進出を決めた。
試合後にイラクの首都バクダッドで勝利を祝って祝砲を上げたが、それにより死者3人、負傷者50人という大惨事になった。

試合中に呪文を唱え11人が死亡

2008年9月14日、コンゴ東部で行われた地元チーム同士の試合で劣勢だったチームのGKが前に出てきて呪文を唱えたところ、選手同士の乱闘に発展。駆けつけた警官に群集が石を投げ、警官は催涙ガスで応酬。死者11人、複数の負傷者が出た。

お祭り騒ぎで死者3人

2008年12月28日、ベトナム代表が東南アジア選手権決勝でタイに勝利して初の国際タイトルを手にした。
それに興奮したサッカーファンがお祭り騒ぎとなり、酒を飲んで国旗を振りかざしながらバイクで集団暴走を繰り返すなどした為交通事故が多発し南部ホーチミンで384人が病院に搬送され3人が死亡した。ハノイでは82人が負傷、14人が身柄を拘束された。

バス事故で15人が死亡

2009年1月12日、ナイジェリアの地元サッカーチームの選手15人がバス事故で死亡した。
アダマワ州にあるチームに所属していた選手らは、プラトー州を通過中に事故に遭遇した。

試合中の選手をファンが射殺

2009年3月15日、イラクの地域リーグでシンジャル対ブハラの試合中でシンジャルの1点リードで迎えた後半ロスタイムにブハラのFWカジム選手がGKと1対1の決定的な場面を迎えた瞬間、同点ゴールを阻止しようとしたシンジャルサポーターの男がいきなり拳銃を発砲した。犯人は即座に取り押さえられたが、頭に被弾したブハラ選手は死亡した。

W杯予選前に乱闘、22人死亡

2009年3月29日、2010年南アフリカW杯のアフリカ予選でコートジボワールのアビジャンの競技場でのマラウィ戦の前に観戦に詰め掛けた観客がもみ合うなどして転倒22人が死亡、132人が負傷した。

選手がファンを射殺

2009年7月5日、コロンビアのアトレチコ・ジュニオールのMFハビエル・フローレス(27)がファンを射殺した。
同クラブは6月28日に国内リーグ前期プレーオフ決勝で敗れたばかりで、同選手は自宅近くで乗用車を運転中にファン数人に『下手くそ』などとからかわれたことに腹を立て、車から降りてファンに向け発砲した。結果、銃弾2発を受けた27歳の電気工の男性が死亡した。同選手は一度乗用車を乗り捨てて逃走したが、すぐに自首した。

喜びのあまり死者14名

2009年11月18日に南アフリカW杯予選でエジプトを1-0で下し本大会出場を決めたアルジェリア代表だったが、それを見ていた国民のうち145名が心筋梗塞を患い、喜びのあまり175名が交通
事故をおこした結果14名の死者と250名を超える負傷者を出した。

武装集団がトーゴ代表を襲撃

2010年1月8日、アフリカネーションズカップ出場のために移動中だったトーゴ代表を乗せたバスがアンゴラで襲撃を受けた。
銃撃は数分間におよびバスの運転手が死亡した他、選手2人を含む9人が負傷した。
同地域は30年間に渡り武装闘争が繰り広げられていた地域だった。事件後に分離独立派のカビンダ解放戦線が犯行声明を出した。

サポが選手に暴行、選手が報復し2人退場

2011年10月31日、ルーマニアリーグでステアウアとミハイ・コステアとの一戦。
ステアウアがPKを奪取したが、サポーターがピッチに侵入。DFのゲオルゲ・ガラマスの後頭部を殴打。
これにより頬骨を骨折。
その後チームメイトがこのサポーターを蹴るなどして報復行為をした為に退場処分。
その後も収拾がつかずステアウアのGKに発炎筒が投げ込まれ命中し倒れこんだ。
試合は中止、殴られたDFと発炎筒が命中したGKが病院に搬送された。

クラシコの予想めぐり口論、父親を射殺

2011年12月8日、サッカー熱が高いアンゴラの首都のアンダで少年(17歳)と父親(48歳)がクラシコについて議論していてヒートアップした結果少年が父親に向けて2発を発砲した。
父親はその場で死亡。少年は拳銃を所持したまま逃走した。

エジプトで暴動85人以上が死亡、1,000人以上が負傷

2012年2月1日に行われたエジプトの国内リーグ戦、アル・アハリ対アル・マスリの一戦。アル・アハリが3-1とリードしたまま試合は終了。
試合後にアル・マスリのサポーターがピッチに乱入がきっかけで両サポーターが暴徒化し衝突。石やペットボトルが飛び交う中、パニックによる圧迫死やナイフで刺されるなどして85人以上が死亡、1,000人以上が負傷するというサッカー史上に残る大惨事になった。

代表選手が刺され、逮捕者は40人以上に

2012年4月15日、アルジェリア1部リーグ第25節MCサイダ対USMアルジェの試合でサポーターが衝突した。この後暴動に発展。警察が出動する事態となった。
試合は1-1というスコアで終了したが、結果に不満を持ったMCサイダ側のサポーターが、USMアルジェ側のサポーターを急襲。
選手団も衝突に巻き込まれ、USMアルジェのアルジェリア代表選手アブデルカデル・ライファウィは何者かにナイフで刺された。また、スタッフのアブドゥラー・シェルシャルも顔面を負傷。
両名は病院に運ばれ治療中である。他にも軽傷を負った4名の選手が病院に運ばれた。
暴動はスタジアム外にも広がり、周辺の公共施設が破壊された他、商店では略奪事件も発生。アルジェリア内務省は40人以上が逮捕されたと発表している。

財政難と窃盗事件のため8人で試合に臨むことに

2012年4月29日、ポルトガル1部ウニオン・レイリアは試合前日に給料の支払いが遅れていることを理由に16人の選手が退団、残った9人のうちマリ人のMFケイタが試合直前にクラブの金が入ったスーツケースを持って逃げたため、8人で試合に臨むこととなったという。スーツケースには6000ユーロ(約64万円)入っておりクラブは警察に通報したとのこと。
なお試合結果は当然ながら0-4で惨敗した。
ウニオン・レイリアは1966年創設。2001年の8月から12月までジョゼ・モウリーニョ氏が監督を務めていたクラブでもある。

試合終了後の暴動で1人死亡、負傷者多数

2012年5月3日、コンゴ民主共和国1部リーグ第7節のUSツィンクンク対サンガ・バレンデの試合が行われ0-0で終了した。その後、観客の暴動が発生し、負傷者多数の上、1名の死亡者が確認されている。
ホームのUSツィンクンクのサポーターがサンガ・バレンデのサポーターを襲撃したという。理由は以前あった衝突に対する復讐であるとのこと。
数カ所でサポーター同士が衝突し、数千人のファンがスタジアムから外に出ようと出口に殺到。被害はスタジアムの外にも及び、駐車車両に乗車していたカップルが襲撃の被害に遭っている。

GKが試合中にサポーターに殴られる

2012年10月19日、イングランドのプレミアシップ(2部)のリーズ対シェフィールドの一戦。1点を先制されていたリーズが動転に追いついた直後に事件が起こった。
リーズのファンと思われる一人の暴漢がピッチに乱入、元イングランド代表GKクリス・カークランドに殴りかかった。
カークランドは一時的に治療を受け、その後は試合終了までプレー。試合は1-1で終了している。

後の調べによると男は21歳、実はスタジアム入場停止処分中だったことが分かった。
2007年、リーズはフットボールリーグ1(3部)への降格の危機にさらされていた。同年行われたあるホームゲームで、チームの成績に不満を持っていた約200人もの観客がピッチに乱入。そのなかに当時16歳だった上記の男性も含まれていたようだ。
同年、この男性には5年間のスタジアム入場停止処分が科せられたが、度重なる違反行為により更に2年間の処分延長が下されていた。つまり、上記の試合当日は処分中だったわけだが、何らかのかたちでスタジアムに入場することに成功したという。

22日にシェフィールドの判事は4週間の禁固刑を言い渡したとのこと。なお「5年間のフットボール観戦禁止処分」も特別に追加された。

乱闘で9人が退場

メキシコリーグ2部のエストゥディアンテス・テコス対ドラドスの一戦。

試合終了後の大乱闘で17人が退場

2012年10月28日、ウルグアイ1部リーグのワンデレルス対フベントゥの一戦。
既に1人の退場者を出していた試合で試合終了直後に大乱闘に発展。合計17人の退場者を出した。

オランダで試合終了後にボランティアの審判が選手に殴られ死亡

2012年12月2日、アマチュア・サッカーチームの試合で審判を引き受けた男性(41)が十代の選手らに殴られ、翌日病院で死亡した。
男性は3日午後5時30分ごろ、ニューウェハイン市内の病院で死亡が確認された。
2日には所属するチームとアムステルダムのチームとの対戦でラインズマン(線審)を務め、試合後に相手チームの選手3人に襲われた。同国のメディアによると、3人は同日のうちにアムステルダム市内の自宅で拘束された。
同国のサッカー協会は声明で「深い衝撃を受けている。現場に警察が出動し、救急車が到着した時には重体だったようだ」と述べた。